消費を支える「はたらく精神の力」

いつも愛読している辰巳渚の「ニュースのツボ」、今回の「消費の意味」はいつにも増して目ウロコだった。

なんのために働くか。物やサービスを買うためだ。物やサービスは何のために必要なのか。よりよい人生のため、豊かな人生のため、がいままでの答えだったが、いまはそこに万人共通の答えがない。そこに自分なりの答えを見つけられない層が「下流」となり、「絶望」する。労働の再生産のための物やサービス、と考えられない層が、「フリーターでその日暮らしでもいいや」と考え、社会的な存在として自分を位置づけられない未熟な層が「自分らしければいいや」とコンビニで食事を買いカジュアルな安い衣料で満足する。

消費とは労働と対になる精神の力であるからこそ、現状の「下流」層がいる、と言えばピンときていただけるだろうか。

働くことに「自己実現」などというごたくをくっつけなくても「働きたい」「仕事するのって楽しい」と積極的に思える精神の力を持った人は、消費にも「人並み」とか「ステイタス」とかのごたくがなくても「買いたいな」「好きなものを買えるのって楽しい」と積極性をもてる。くどくど考え始めると、働くことにも消費にもたいした意味はないことがわかるけれども、やってみれば楽しいことでもあるわけで、「やってみれば楽しい」というだけの価値で私たちは人生をなんとか生き切っていくしかない。つまりは、私たちが問われているのは、なまじ考える力よりも、ともかく行動していく力であり、必要がなくてもなにかをしたいと思える力なのだと私は思うのである。

労働と対になる消費をしない人たちは「下流」となり、そうでない人たちが「中流」「上流」と意識する、ということ。それは「精神の力」であり、今の公教育システム、ひいては社会システムがその「精神の力」を維持させない何かを持っているところに問題があるのかもしれない。